少将の君
さるむかし、六十三代冷泉天皇の皇子「五條の宮」は、上総の国主に任ぜられ、はるばる草深い東国に下られた。宮に従って任についた蔵人の清光には、みめ形ひときわうるわしく、そのうえ箏、琴にはたぐいまれな技量の「少将の君」という一人の妹がいた。
みやびた遊びの、これひとつとしてない上総の国のこと、宮のつれづれをなぐさめるよすがは少将の君の箏、琴だけであった。そしていつしか少将の君は、宮のごちょう愛をうけるようになった。黒潮に洗われる上総の国の明るい太陽は、若い二人を祝福するかのようだった。
ところが、そのころ都では冷泉天皇にわかに病にかかられ、急使によって宮は、とるものもとりあえず都に上がられた。しかしどうしたことだろう、少将の君も、にわかに病のとこにふすようになったが、兄夫婦の介抱のかいあって翌年二月、玉のような姫君が誕生した。少将の君も清光たちも、「ひとえに日頃信心する尾野上の観世音菩薩のご加護であろう」と喜びあった。
十一面観音
五十代桓武天皇の延歴三年(七八四)、伝教大師が東国を行脚したおり、たまたま尾野上の山に至ると、山の頂に金色の光がキラキラ照りかがやくのをみた。「さて不思議なことよ」と光のあとをたずねてゆくと、平を摩するようにクスの大木がそびえていた。そして、その根かたのうつろに、小さな十一面観音像がはめ込まれていた。大師は、ただならぬ法の道にみちびかれ、この地に草庵を結び、このクスの木をもって、約二.二メートル(七尺八寸)の十一面観音像を刻み、庵のほとりに安置したのである。少将の君が尊崇したのは、この尾野上の十一面観音であった。
みかどのご落胆
さて、都へ上った五条の宮からは、どうしたことか、いつかな便りがこないばかり、こちらからの手紙にも一向返事がない。ようやく健康をとり戻した少将の君も、日ごとにやせ細り、ついには二十四で短い一生を終えたのである。小さい姫をかかえた兄清光夫婦は、尾野上の里に箕やムシロを編み、それをたつきとして姫の成長だけを楽しみに、くる日くる日を送るようになった。
六十八代の後一条天皇は、嵯峨の中将の姫をおきさきに迎えられ、楽しい日々を送られたが、おきさきはわずか十七歳でおなくなりになった。みかどのご落胆は、はた目にもおいたわしいほど。そこで中将たちはみかどのお嘆きをなんとかお慰めしようと、全国から才色ともにすぐれた乙女を探し求めることになった。
ミノとカサ
まず上総の国に使いを下し、市原に府中を置き、中将みずから領主、地主たちに「各地の美女を選び、早乙女姿で五月一二日に府中に集まるよう」命じた。いまでは「箕作りのおきなの乙女」といわれる少将の君の娘も、地頭の命によって、早乙女姿になって、府中に向かった。たとえ姿は農家の娘であっても、父五条の宮の威厳と母から受けついだ美ぼうは隠しおおせない。
折しもその日は、朝からしとどにさみだれが緑の山野をぬらしていた。そま道をたどりながらゆくと、路傍にあの慈悲の相をたたえた十一面観音が、音もなく降るさみだれにぬれそぼっている。はっと胸をつかれた乙女は、身につけていたミノとカサをとき、観音に着せた。
人におくれて府中につくと、さっそく中将が対面した。―どうだろう、乙女の花のかんばせは、ほの暗いさみだれのなかに照りはえ、おどろいたことには、後一条天皇のおきさきにウリ二つではないか。すぐさま玉の輿をしつらえ、清光をはじめ領主たちとともに都へ上がったのである。
十一面観音の加護
万寿三年(1026)十月八日入内し、天皇にお目にかかったところ、非常にお喜びになり「桐壷の女御」という名前を下され、お二人は末永くむつび給うたということである。これも十一面観音の加護によるものであろう。里人たちはそのように信じ、そのように語り伝えるのである。